夢の話 多分パート1

偶然の講義が一緒になり仲良くなった大学生という設定で鶴ぼ/イドルが夢に登場。彼に淡い好意を抱いている僕、構内で彼とばったり遭遇しわくわくドキドキ、しばし歓談。しかし彼はどこか落ち着かない何だか焦っている様子。

理由を聞くと先程意中の女の子が近くを通り過ぎ、僕と一緒にいるところを見られて不都合だというのだ。その女性は僕も見かけたことのある、花形学部のゆるふわ女子だった。どうやら友達の紹介でラインを続けているらしい。デートも一回したと。彼は即座に彼女にコールし、さっき他の女性(僕)と仲良さそうに話してて気になったかもしれないけどただの友達だから、と弁明。彼女サイドは「そういう直ぐに気にかけてくれるところが嬉しい」との反応。恋が走り出したのを尻目に、ただのかませ犬、或いはそんな悪役にすらなりきれないモブの僕は、夢の中で結局所詮僕は主人公にはなれないのだと哀愁を感じるのであった。同時にいつまでも陰キャ陽キャだ、惚れた腫れたに心を揺さぶられる僕自身の卑しさを酷く浅ましく思うのであった。この夢は僕になにを教えようとするのか。はたまた自己の投影であるのか。哀れなアクマに魂の救済を......

いやだ

うわー。1年以上ぶりの更新だ。帰ってきてOKですか?いけます?やりますよ?お手柔らかにお願いしますね。




えと、取り敢えず前の二つの記事の感想言います。


意味わかんないです。


いや、なんだろ。読んでね、いやーこの思考してそうとか、単純にはいはいそれねわかるよなるほどねってのはあります。過去とはいえど本当に本当の同じ人間なので。

けど、意味がわからん。読んでて何が言いたいのかわからないんですよ。補足としてカッコでくくってる感じとか、いやそれカッコににどんな意味含めたかったんかわからんねん。草。が多すぎ。


重ね重ねすみませんでした。読んでくれた人。そして、ありがとうございます。


で、本題です。

今回は、特に話したいことがないんです。


いや、あるんです。



すみません。違うのです。


平成最後の夏

こんにちは。どうも、隙あらば自分語りです。よろしくお願いします。


やる気も何もない夏。

今京都はゴリゴリに雨降って雷鳴ってます。どうでもいいねんけど、今ごりごりって打ったらガリガリって予測変換に出て来た。ちょっとおもろ。いや何がおもろいねんな。こんなんで笑えるうちは死なへんのやろな。


自分の家、京都にあるんですけど、エアコン壊れてます。設定16℃やけど、30℃はまあ超えてる体感。真夏の京都でエアコン壊れてるは終わってるやろ。お察しの通りはっきり言ってクソ暑いです。今は死ぬほど汗かきながら塩ライチサワー飲みつつ鶏肉食べつつアニメと映画観てます。割と夏感じてるやんわろた。まぁ、楽しいです。血小板ちゃん可愛いので。


色々と、最近忘れてたことちょっと考える時間できたので整理しようかなと。



僕の好きなSF作家の伊藤計劃さん。

ひっさびさ本読み期間で、とりあえずこの人の書いたエッセイ読んでました。



 人間は死を望むことができるのだから、生は本能ではない。欲望ね。



ここでいう本能と欲望って論点ズレてる気がせんでもないけど、このズレはすぐに人の粗探す僕の性格の現れのような気もする。


伊藤計劃氏ご本人はガンで亡くなったし、入院中にこれ書いてたみたいやから、死を身近に感じてる毎日ありきの思考やったんかもしれんけど。


まあこの主張に言及するつもりは無くて、単なるきっかけで、こっからは僕の思考。


 今すぐに死(=思考を停止)ねるならそれもあり、とずっと思ってきたけど、結論誰かと繋がってる限り死ぬことは死後に誰かに迷惑をかけるって事で。迷惑じゃないと思ってもらえたとしても面倒ごとであることは間違いないし。そう思ってしまわれるのはまるで本望ではないし。じゃあ死後に迷惑、面倒じゃないと極力思ってもらわなあかんわけで、そうするためにはそう生きていかなあかんってことで。


つまり、時期は置いておくにしろ、死ぬときは、


死後に、誰にも(極力)迷惑だと思われないように死ぬ


ことが目標になってくる。


あれ?これって


死後に、誰にも(極力)迷惑だと思われないように生きる


と意味おんなじじゃないですか。



この感じで行くと

死=生

なのか

それとも

死∈生?死∋生?


あ、おんなじなん?って思って試しにググってみました。

そしたら、あのカヲルくんの台詞が。

そういえば、「生と死は等価値」って言ってましたね。


カヲルくんが言ってるのは彼の特殊な環境が起因な訳やけど。


伊藤計劃氏の言葉を参考にすると、死は欲望やし、生も(例外はあれど)欲望から来るものだと考えると、等価値説も間違ってはいないのか。



なんせ結局、生まれた時点で死ぬことは確定してます。

生を受けて人と関わりを持った時点で、(死後に人に迷惑やと思われないように)生きていく(=死ぬ)ってのは動物としての社会的責任なんですかね?ってことはこれは潜在意識でしょうか。本能なんでしょうか。

あれ、生きることは本能ではなく欲望って誰かが言ってたような。カオス。ますます思考が混濁の彼方へ。


こんなナンセンスな思考をエアコンが💩な部屋で考えてる平成最後の夏です。


まあ、割と自分らしくて気に入ってます。


同時に、数年前から変わらない脳内で成長が見られず死にたくもあります。

・・・ん?

死ぬことは生きることちゃん?って言ったばかりですね。そうですか。死にたい=生きたいなんですか。それを知らずにずっと死にたいって言ってたんですか僕は。恥ずかしいし情けないしもう死にたいです。


訳がわからないです。



結論は日本語は難しいね、です。



最近は生だとか死だとかについて語るとヤバイ宗教の人やと思われるかもしれんと思って、割とこの話題は封印しています。



皆さんに少しでも納涼をお届けできれば。

ご精読ありがとうございました。


3つの社会

Twitterでは収まりきらない

facebookは投稿する気にならないので初めてみました

 

こんばんは

 

のんびりいくよ

 

 僕はとあるメーカーの新入社員です。メーカーにはありがちだと思うんですが、製造ラインに入って研修中の身です。

 

 全くライン自体がクソとかそんなことはないです。緻密な作業は楽しい。ただ無言で細かい作業をやるからもの思いに耽る耽る。つまり色々ととりとめもないことを考えてしまいながら時間が過ぎ行くわけです。

 

いつもの通りしょうもない人間観察と自己完結なんだけど。文章にしておこうかと。

 

というのもこんな作業をするのも初めてだし、そこで感じたこと、同じ新入社員の人から話を聞いて感じたことを踏まえると、そこ(世界)にはたくさん社会があるなぁと。大きく感じたのは3つ。いってみよう!

 

[1つ目の社会について]

 

 ライン作業は基本1つのエリアに社員1人のパート数人てかんじ。この人たちの質によって眠いやら疲れるやら楽しいやら仕事の印象が変わるのだけれど。

なんせパートはおばちゃんばっかなんで、陰口の横行がすごい。すごいっていうかな、驚き。休憩とかでいない人の話すぐしちゃうからね。さっきまで言ってた人がもう陰口言われてるんだ。怖いわ。んでこれが1個目の社会。働くおばちゃんの社会。社員さんもおばちゃんだったりするけど、社員さんはあんまその会話に参加しないな。責任感の薄めなパートのおばちゃんが多いイメージ。あくまでイメージ。単に共通の話題として成立するものが陰口くらいしかないのかもとも思うけどね、何せ体感した社会。良い悪いとか無く。

 

[2つめの社会について]

 

同期の話。一番とっつきにくくて、広げにくい話。個人的に。

研修数グループに別れてるので、お昼休みにみんなでなんとなく集まって話す。「同期ウェーイ」って感じではないので、まったりと、その日集まった人だけで。大数人で話したり、2人だったり、ぼっちだったり。学生のようである。

そして今日、僕はある男性同期と2人で話していた。

彼曰く、

「昨日、彼女と電話して、1ヶ月ほど距離を置くことになった。」

そうだ。

それはそれは。どうやら将来のことを考えると今の相手ではどうかと不安になったようである。

まるで社会である。

将来のことを考えるなんて。今が楽しいだけではダメなのか。性欲満たす相手でいいだろ。しかし、彼の気持ちはもっと複雑なのだろう。そんなのは当事者でないとわからんのだろうし、僕が口を挟むことではない。

だが、同期として同じ環境にいるもの同士でも、脳内に浮かぶ悩みや思考、プライベートで置かれている立場、によって職がプライベートに及ぼす影響などなどが全く別であるところに、パーソナリティを感じた。

また、結婚という高次の社会活動(これは個人の見解だが)を見据えた勤労をしていることに、人間としての性能差を感じた。つまり僕は高次の社会活動に対する意欲がなく、人間的に劣っている。

このように個人を感じることでひいてはその集団である企業、社会を感じることになるのだった。

 

[3つめの社会について]

 

製造ラインならではの話。

今僕は医療機器の体内に入る本当に小さな部品の組み立てをしております。毎日何十個何百個も作るわけだけど、1人が一から十まで部品を組み立てるわけじゃない。成形、塗装する人もいれば、傷確認、研磨する人もいる。フロアには30人くらいの人がいて、それぞれの製品のそれぞれの組立工程を受け持っている。その中で僕は研修としてその中で比較的簡単でミスの少ない仕事をやらせてもらってるわけだ。

で、作業をしてる時に本気で思った話に移りたい。ぶっちゃけこんな機械なんて、製品なんて、数十年前には無かった。今では顧客(医師)や患者にとって在るのが当たり前の製品だけど、昔から在るわけでも無く、また、ポッと出で出来た製品でもない。ここにいる数多の人たちの生産活動によって出来たものなのだ。無くても困らない(そもそも従来の状態が当たり前だととらえられる)製品、そんなものを作り出してしまう、より便利なものを追い求める人間や企業、社会の意思を感じた。そして今、その生産活動に1人の働きアリとして加わっている。社会に従事している。それはまるで大きくもあるし、ちっぽけなことのようにも思える事実であった。

 

 

以上3つの社会でした。

 

あまりにも稚拙で成熟していない精神の元の成される思考なので、お見苦しかったことでしょう。ここまで読んでくれた方は、ありがとうございました。